Lilac Rainbowsでのセッション

 同志社大学には、オレ在籍当時は軽音楽サークルが確か5つぐらいあったと思う。その中で『Lilac Rainbows(以下、ライラック)』を選んだのは、やはり運命というべきなのか?

 自分で言うのもなんやけど、入学当初から初々しさって無かったと思うし、極めて異質な空気を放っていたと思う。だから、悲しいかな、勧誘ってほとんどされなかったのだ。ほんまに数えるほどやった。田辺キャンパスにはホール前の広場でデモ演というのをよくやっている。まあ野外ライヴによるPRってところかな。それを見ていたところ、声をかけられ、BOXの方に連れていかれたのだった。

 しかし、このライラックというサークルは、ハードロックやメタルのカラーが強いという噂だったので、入部にはだいぶ躊躇した。しかし、他のサークルに比べ、かなり音楽に対する真剣さは感じられたので、とりあえず仮入部したのだった。

 ここからオレの想像を絶する苦悩の日々が続くことになる。

 バンドをやるサークルなわけやから、当然サークル内でメンバーを見つけなければならない。そのために最初、セッション期間というものが設けられていた。お互い知っている曲があったら、ちょっと合わせてみようかっていう感じで、その持ち味だったり技術だったり音楽性を探り合う時間だ。

 バンド初心者のオレはそのセッション期間中、毎日マメに顔を出し様子をうかがった。しかし、顔を出す度に不安と落胆の色が増していった。バンド経験者は得意がってギターを弾きまくったりとかしていたし、オレが全く知らないようなバンド名とかが飛び交い、全く会話すらままならない状態やった。

 そんなセッション期間の最終日、いつものようにじっとすわって様子を見てたところ、ふと幹事長の目がオレに止まってしまった。

「おい、おまえパートは?」

「ヴォーカルですけど・・・」

「何が歌えるねん?」

「TMNとFENCE OF DEFENCEしか歌えない」

 すると、横にいたベースの三回生の人が「Get Wildやろうかあ」って言うて、おもむろにベースでリフを弾き始めた。なんとまあ、オレはベースだけで『Get Wild』を披露せんといかんようになってしまった。1コーラスで置いといたが、幹事長は「おまえ、大物になるわあ」って言うてくれたから、インパクトはあったようやね。しかし、これがまた却ってオレと他の奴らとの音楽性の違いをかなり浮き彫りにしてしまったな。

 サークルは、バンドを組んでいなくとも、毎週土曜日に、ミーティングと決まっていた。今はどうなっているのかよく知らないのだが、当時1,2回生は田辺で、3,4回生は今出川で学ぶことになっていた。京都の人間ならわかると思うが、この2つの間の距離はかなりある(近鉄興戸駅と地下鉄今出川駅を何分か調べられる人は調べて)。だから、縦のつながりでバンドを組んだりしてしまうと、けっこう集まるのが大変だったりするわけだ。ミーティングは最初だけ新入部員のことを考慮して田辺で行われていたが、後に今出川へシフトする。

 このミーティングがどれだけ苦であったか。オレは一体何をやってるんやろうと思ったことも数知れず。全くなじめなかった。一応、同回生とは多少しゃべるようになってたけども、どうしても距離を感じてしまう。ライラックのBOXには全く立ち寄らず、どういうわけか速記研究会のBOXにいることの方が多かった。(笑)

 そんな状況下、一度ライラックのBOXに立ち寄ることを決意した。それはちょっと上回生に相談してみるかと思ったのだ。果たしてこのままこのサークルにおるべきか、あるいは他に良いサークルは無いのか。

 この時に為ちゃんっていう二回生がいたのだが(実は翌年、幹部として共に働くことになる)、後々に語り入った時に、この時のことをこう言っていた。

「俺、こいつメチャメチャ真剣に音楽をやりたいんやなあって、びっくりしたわ。こんな真面目な奴おるんやなあって。」

 このBOXに押し掛けた時からオレは言っていた。

「プロになりたいとは思わない。でも通用するものはやりたい!」と。

 だからやめなかった。それが出来そうなのはこのライラックしかないかなとも思ってたからだ。他のサークルがもうちょっとお楽しみモードやったのに対し、ライラックってシビアな面が多かったから。

 そのシビアな面と言えば、発表会での辛辣な批評の仕合とか、出欠・遅刻の厳重なチェックなどもイベントでの出場に関係してくるという、何かいろいろな面で体育系がかってたな。

 バンド名にしても、1回生は最初のうちは正式なバンド名もつけさせてもらえず、ROCK A、ROCK Bなどと、できた順に呼ぶことになっていた。

 そうこうしてるうちに、バンドを組むこともないまま、夏休みを迎えてしまう。夏休みには強制的に一週間全員参加の合宿が、信州で行われることになっていた。そんなわけで、正式なバンドじゃなくても、セッションとか無理からに作ってしまう必要があった。

 あぶれていたのは、別にオレだけやなかったし、それに意外とヴォーカリストって少なかったから、これはもうそのうちヘルプを頼まれるやろうなあとは思っていた。実際、それを見越して、夏休み前の総会では

「現状では自分のやりたいことはできそうにないんで、とりあえずお雇いヴォーカリストとして、頼まれればやってもいいかなと思っています。」ってなことを宣言していた。

 この発言が、後にアジャンタでバンドを組むことになるベースのもんちゃんなんかは「何様やねん!」と感じたらしく、「こいつとは絶対に組まない!」って思ったらしい。(笑)

 さてその結果、先ずあぶれもの同士で、BOB MARLEYのセッションをやることになり、オレは全くピンとこないレゲエを歌うことになった。

 さらに、LED ZEPPELINのコピー・バンドだったROCK Bが分裂し、新たなROCK Dがヴォーカリストを探しているという。そこでオレに白羽の矢が立った。こちらはハードロックで、DioやOZZY OZBOURNEをやるという。

 かくしてオレのバンド初体験は、テクノ系人間にもかかわらず、かたやレゲエ、かたやハードロックというトンデモ大冒険だった。

 実際練習できたのは、合宿での数回だけ。実は英語で歌うのは、中学の時の合唱で『カントリー・ロード』を歌って以来だったので、心許なかったね。それでも、ハードロックはハイトーンも問題なかったし、ノリも難しくなく、やってて楽しかったわ。ただ、ステージングはメチャメチャやったけどな。(笑)

 それに引き換え、BOB MARLEYは・・・。ノリがさっぱりつかめへんかった。難しかったわ。ものすごくブルーになった。結局、最後まで手探り状態やったな。オレには合わんと思いつつも、すごくヘビーなレゲエを披露した。揺れてないんよ、重すぎて。(笑) しかも歌詞が覚えきれなくて、大胆にもカンペを腕に貼っつけて歌ってやったら、後で幹部連中にボロカス批評された。(笑)

 オレはこの合宿の帰りのバスの中、心の中で思ったよ。

「さようなら、ライラック・・・」ってね。(爆)

 しかしまあ、オレの歌の実力だけはどうやら認知されたようで、上回生に対して愛想もなく、ろくに敬語も使わない生意気な奴として、「Resistance」なんて言われつつも、一目置いてもらえる存在には徐々になっていったように思う。でも煙たかったやろうなあ。それでも、その「Resistance」精神が勢い余って、翌年幹部の一員となってしまうのだった。「今の二回生が頼りないんで・・・」なんて、よりいっそう敵に回すようなことを言って立候補しちゃったんやけどね。(笑)

 ROCK Dも正式にAGNUS DEIとなり、注目もされ始めるようになったし、ようやくオレもサークルのメンバーとして軌道にのってきた。

 春の合宿では、『ELEGY』という、DEEP PURPLEのコピー・バンドからヘルプを頼まれた。勿論AGNUSとかけもちやったわけやけど、『BLACK NIGHT』と『STRANGE KIND OF WOMAN』っていう簡単な曲やったし、特に問題なかったけどね。意外とオレの声でのDEEP PURPLEって評判良かったな。

 この時、もんちゃんもヘルプ・ベーシストとして参加してたんやけど、もう既にオレのことを認めてくれていたようだったので、一緒に楽しくやれたね。まあ、口で生意気なことを言った以上は、オレの態度や姿勢や行動で納得させればいいって思ってたから。サークルに対しては、音楽に対する想いも実力も負けるわけがないって、自分に言い聞かせてやってたよなあ。

 ほんで、夏の合宿ではこれまた『紫』っていうセッションで、DEEP PURPLEをやることになってしまった。これは、上回生がDEEP PURPLEに対して苦い思い出があったらしく、リベンジしたかったそうな。そこで、またオレに白羽の矢が立ってしまった。この時には、既に幹部としても他の幹部にも負けないよう十分存在感は発揮していたし、上回生とのコミュニケーションもうまくとれるようになっていた。だから、縦のつながりでのバンドでも、問題は無かったね。『SPEED KING』と『BURN』を主にやってたっけな。

 だが、この夏合宿では、既にライラック屈指のテクニシャンが集まり、YESのセッションをやることが決まっていた。しかも当然、AGNUS DEIもあるわけで、合宿は超ハードを極めた。しかも、全てハイトーン!睡眠時間も極端に減った。合宿最終日、つまり発表会本番時に声が嗄れるという事態に陥ってしまう。オレのヴォーカリストの歴史上、声を出しすぎて嗄れてしまったってのはこの時ぐらいやった。当然、練習の時の方が出来が良かった。声帯の強さにはかなり自信があったんやけど、やっぱり無理はいけない。

 こんなふうに、Lilac Rainbowsでは、普段なじみの無かった音楽ジャンルに挑戦し、自分の幅を広げることができた。あの道を通らずして、今音楽活動していたとしたら、スケールの小さい、深みの無い、あまり面白くないものになってたかもしれない。

 聴く音楽の幅も相当広がり、いろんな奴からいろんなCDを貸し借りしたもんだ。新しい刺激にホンマに貪欲になったね。それは、コピーだけじゃなく、オリジナルもちゃんと志していたからだと思う。あの時の活動は一つの財産だが、今からすればもっともっといろいろできたなあって思うんで、ふり返るのはこの程度にしておくかな。(笑)

 

 

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